試論:イザヤ50章3節を140文字以内で

イザヤ50章3節は「わたしは天に暗黒を着せて〔喪に服させ〕さらに粗布で覆う」と預言する。この箇所は、前章から続く「主の僕(しもべ)」すなわち主イエス・キリストに関する啓示であることから、ルカ23章44節以下で主が息を引き取られる前後の、暗黒に包まれた全地との関連が指摘されてきた。

(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

幼子を腕に抱いたシメオンはルカ2章32節で幼子を「万民を照らす啓示の光」と呼んだ。イザヤ49章6節は「わたしはあなたを僕(しもべ)とし、国々の光としてわたしの救いを地の果てまでも、もたらす者とする」と預言した。フィリピ2章7節「キリストは人間と同じ者になられ、僕の身になられた」。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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