ヨハネ11章55節は過越祭の前に多くのユダヤ人が清めのために上京したと記す。この「清め」は民数記19章で言及されている「清めの水」を振りかけられる儀式を指し、「カナでの婚礼」の箇所で言及される「清めに用いる水がめ」と同型の水がめがエルサレム神殿の遺跡発掘調査で多数発見されている。
【追記】
カナでの婚礼の場面には「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」(ヨハネ2章6節)が登場する。モーセの律法で用いられる「清めの水」に関しては民数記19章にまとまった記述があるが、使用法について18節では、身の清い人がヒソプを取ってその水に浸し、対象となる人または物に振りかけると定める。
(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことなのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/408
大規模な「清めに用いる石の水がめ」は当時のユダヤ人のどんな家庭にもあるような物ではなく、律法の規定との関連が歴然であることから婚礼が行われた家族は祭司族に属するものと推測されてきた。主イエスや弟子たちは客人として招かれていたが、母マリアも(恐らく親族として)その場に同席していた。
カナでの婚礼の際、主と弟子たちは招かれていたが聖母もそこにいた。近所だから手伝いに来たというにはカナはナザレからやや遠く、婚礼の家は聖母の親族だった蓋然性がある。ユダヤ人が清めに用いる石の水がめはエルサレム神殿の遺跡で多数発掘されているため、婚礼の家は祭司族の家柄とも推測される。
(注)別エントリー「試論:カナでの婚礼と聖母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9059
(注)別エントリー「試論:聖母の両親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6633
モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現し(新共同訳は「新鮮な水」)、主イエスはヨハネ7章38節では人間を清い者とする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられ、同4章のサマリアの女との対話で御自分を「生きた水」(10節)を与える者だと表現された。
(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984
エレミヤ17章13節以下は「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼び、「主よ、あなたが癒してくださるならわたしは癒され、あなたが救ってくださるならわたしは救われます」と続く。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)では主による赦しは癒しと同一視される。
モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。