試論:ヨハネ7章46節を140文字以内で

ヨハネ7章45節以下で、イエスを取り逃したことに立腹した祭司長たちやファリサイ派の人々に対し守衛たちは「彼のように話した人は今までいませんでした」と答えた。マタイ7章28節以下「イエスの説教は終わったが、群衆は大いに驚かされた。御自分を権威ある者として、教えられたからであった」。

【追記】

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現し(新共同訳は「新鮮な水」)、主イエスはヨハネ7章38節では人間を清い者とする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられ、同4章のサマリアの女との対話で御自分を「生きた水」(10節)を与える者だと表現された。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

エレミヤ17章13節以下は「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼び、「主よ、あなたが癒してくださるならわたしは癒され、あなたが救ってくださるならわたしは救われます」と続く。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)では主による赦しは癒しと同一視される。

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。