「主の奉献」の際、ルカ2章32節でシメオンは幼子イエスを「異邦人を照らす〔啓示の〕光」と呼んだ。これはイザヤ42章の「主の僕(しもべ)」預言の「諸国の光」(6節)に対応するが、到来の徴は「目の見えない人の視力の回復」(7節)であることを、イザヤは35章の「救い主」同様に預言した。
(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『剣』何の比喩?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:異邦人を照らす啓示の光?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。
(注)別エントリー「試論:『捕らわれ人に解放を』?を140文字以内で」も参照のこと。
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「ありとあらゆる病気や患い」(マタイ9章35節)に苦しみ弱り果てても助けが得られない人々のことを、イザヤ42章3節(マタイ12章20節)は「傷ついた葦」「くすぶる灯心」等と表現し、彼らを力づける「主の僕(しもべ)」をイザヤは預言したが、マタイ12章17節ではイエスがそれだと記す。
注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
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