箴言11章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになり、これは生きていく上で最も重要かつ不可欠な事柄を「命」と呼ぶヘブライ人の観念(レビ17章14節「全ての生物の命は、その血」)に基づいてはいるが、同様の観念は現代の日本人の中にも当然ある(例:「ギタリストにとってギターは命」)。
「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。
申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。
箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。
マルコ10章17節で主に金持ちの男が永遠の命を受け継ぐにはどうすればと尋ねた時、彼はそれが比較的容易な問題と考えていた。主はマタイ13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があると、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。
ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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