マタイ7章21節「わたしの天の父の御心を行う者だけが、天の国に入る」11節「求める相手に良いものを与えることこそ、天の父の御心」12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」5章48節「天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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主イエスはマタイ5章48節で「あなたたちの天の御父が完全な方であられるように、あなたたちも完全な人になりなさい」と仰せになったが、「完全」の意味をヤコブ3章2節は「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人」と呼び、「舌を制御する」(8節)ことの重要性を説く。
マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。
マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。
(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。
主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。
(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。
(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。
マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。
主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。
ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。
(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。
箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。
(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)
ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。
(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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