試論:ヨハネ3章5節「水と霊」を140文字以内で

主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」、古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。

(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことなのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/408

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現し(新共同訳は「新鮮な水」)、主イエスはヨハネ7章38節では人間を清い者とする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられ、同4章のサマリアの女との対話で御自分を「生きた水」(10節)を与える者だと表現された。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ17章13節以下は「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼び、「主よ、あなたが癒してくださるならわたしは癒され、あなたが救ってくださるならわたしは救われます」と続く。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)では主による赦しは癒しと同一視される。

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。