イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。
(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。
他の福音書とは違い、ヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語ピスティスが登場しない。その替わりヨハネは「真理(アレテイア)」を押し通す。この場合のアレテイアは《忠実》を意味し、「御子であるわたしが御父の掟に忠実だったように、皆もわたしの掟に忠実でありなさい」の意味合いである。
幼子イエスに関してルカ2章40節は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節は「その栄光は御父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と記す。他の福音書が「知恵」や「信仰」と表現する際もヨハネ福音書は「真理」という語を当てている。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。