「平和」とはヘブライ語で幸福の総称であり具体的には、主イエスが準備(用意)された《御父の家》(ヨハネ14章2節)にて御父や御子イエスと一緒に住むことを指す。一コリント2章9節は「誰も見聞きせず誰の心にも思い浮かばなかったことを、神は御自分を愛する者たち準備(用意)された」と記す。
【追記】
主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、与える方法をコロサイ1章20節は「十字架の血によって」と記す。ヘブライ語で平和とは幸福の総称だが、具体的には、新しく創造された天・地・エルサレムの中で復活の体で生きること──《永遠の命》とはそれである。
(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。
イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。
黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。
(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。
(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一緒に住む』どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。
(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。
(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
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