使徒言行録3章でペトロは足の不自由な男性に、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って男性を癒した。主イエスはマタイ10章1節で十二使徒にあらゆる病気や患いを癒す権能を与えられ、その上で「わたしから無償で授けられたのだから、無償で与えなさい」とお命じになった。
【追記】
主イエスはマタイ10章で十二人を派遣される際、汚れた霊に対する権能に関し「ただで受けたのだからただで与えなさい」と仰せになり、取引の材料にしてはいけないと念を押された。使徒言行録8章で、魔術師シモンがこの権能を金(かね)で買おうとした際、ペトロは主の仰せを踏まえてシモンを叱った。
主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。
(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。
(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。
(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。