【問】パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによってではなく信仰によると、わたしたちは考える」と記しますが、どういう意味ですか?【答】「わたしが求めるのは憐れみでありいけにえではない」に従い、形式的な行為でなく、日々の具体的な憐れみの業(隣人愛)を神に献げなさいという意味です。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650
(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『律法の行い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12032
【追記】
主はホセア6章6節から、「わたしが求めるのは憐れみであって、『いけにえ』ではない」という箇所を二度もマタイ福音書において引用されており(9章13節、12章7節)、また23章23節では「律法の中で最も重要な正義、憐れみ、誠実」また「これこそ行うべきことである」と仰せになられている。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296
(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛』の反対を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11428
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、
《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、
《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。
人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884
(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982
(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846
(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197
マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994