詩編2編7節以下「主はわたしに対して仰せになった。『あなたはわたしの子である。今日わたしはあなたを生んだ。あなたはわたしに対して求めなさい。わたしは国々をあなたの相続財産とし、地の果てまでも、あなたの領土とする。あなたは国々を鉄の杖で打ち、陶工が器を砕くように砕くことだろう』」。
黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。
(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。
(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。
詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。
主の御言葉はエレミヤ23章29節の啓示では「岩を打ち砕く〔鉄〕槌」にたとえられた。出エジプト記では神の杖(4章20節)もまた、「槌」として岩を打ち砕く(同17章5節以下)。故に黙示録の「〔土の器を打ち砕く〕鉄の杖」(2章27節、12章5節)は、主の御言葉を象徴的に表す比喩である。
ヨブ19章2節で、自分を尋ねて来た友人たちに対しヨブは、彼らの言葉が自分を打ち砕くと答えた。エレミヤ23章29節で主は「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようだ」と仰せになった。黙示録2章27節の「土の器(=人間)を打ち砕く鉄の杖」とは実は「神の御言葉」の比喩の一つであると分かる。
エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか」を踏まえれば、ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずる」の「火」は「神の御言葉」を指す。エレミヤ23章29節「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようではないか」を踏まえれば、黙示録2章27節「鉄の杖」も「神の御言葉」を指す。
(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。
(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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黙示録12章17節〜18節「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者(神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者)たちと戦おうとして出て行った。竜は海辺の砂の上に立った」ローマ9章27節「たとえ、イスラエルの子孫の数が、海辺の砂のようであったとしても、残りの者が救われる」。
(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことができないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。
(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。
(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。
(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。
ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。
古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
一コリント15章は《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》を、「地上の体」と「天上の体」、「地上の命の体」と「霊の体」などと表現する。ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。
上記を踏まえればヨハネ14章27節「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」際の方法を、コロサイ1章は「十字架の血によって」(20節)「御子の肉の体の死によって」(22節)と説く。主には人間として母親しか存在せず、「御子の肉の体」はマリア一人に由来する。
救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。
(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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