試論:「わたしのような預言者」を140文字以内で

モーセは古代イスラエル最大の預言者と見なされた(申命記34章10節)。彼が「わたしのような預言者」(同18章15節)と呼んで預言したメシア(ダニエル9章24節。油注がれた最も聖なる者)を、ペトロはイエスのことだと使徒言行録3章で説教した。ダニエル書のメシアは預言の時代を封印する。

【追記】

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

ゼカリヤ13章の6節までは、旧約の民から真の預言者が途絶え、残った偽預言者たちが神や人々から排斥される時代を預言した。7節からは、人々を清める教えをもたらすために来られる救い主に旧約の民の多くはついていけないが、残りの少数は救い主に最後まで従い新時代の神の民を形成すると預言した。

(注)別エントリー「試論;偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

(注)別エントリー「試論;ユダヤ教と預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5099

(注)別エントリー「試論;偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22