試論:「立ち帰って生きよ」を140文字以内で

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

【追記】

黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。

黙示録20章には「この火の池が第二の死である」(14節)「その名が命の書にない者は火の池に投げ込まれた」(15節)などとあるが、マタイ25章には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)「永遠の罰」(46節)と書かれている。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

知恵の書5章8節は「われわれは当然のように自分を自慢して隣人たちを小馬鹿にし、富を誇り、物質的な価値観以外の事柄に対しては忌み嫌って、少しも意味など感じることはなかったが、そのような生き方や富は本当に自分の役に立ったのだろうか? 富と高慢は自分を最後にどこへ導いたのか?」と記す。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665