黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。
(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。
主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。
古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。
(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。
古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。