主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。
(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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【追記】
黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。
主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、どうやって与えるのかパウロはコロサイ1章20節で「十字架の血によって」と答えを記した。平和とは古代のヘブライ人にとって幸福の総称であり、具体的には新しい天・地・エルサレムと復活の体そして永遠の命である。
(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。
(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章31節以下には、主イエス・キリストによる最後の審判について書かれており、その裁きの結果、正しい人たちは「永遠の命」にあずかって「天地創造の時から用意されている国」を受け継ぎ、そうでない人たちは「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」に入って「永遠の罰」を受ける。
(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。
(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。
主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。