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マリアを「神の母」と呼ぶ聖書的根拠

(以下、聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

【1】マリアを「神の母」と呼ぶ聖書的根拠:「どうして、わたしの所にお迎えできようか」

◯ルカによる福音書1章43節
「わたしの主の御母(おんはは)が、わたしのもとへおいでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう」

(注)エリサベトはルカ1章43節においてマリアのことを「わたしの主の御母(おんはは)」と呼んだが、この場合の「わたしの主」とは当然、「神」と同義語である。カトリック教会がマリアを「神の母」と呼ぶ根拠がここにある。この言葉はエリサベトが自分勝手に言ったのではなく、「聖霊に満たされて…言った」(ルカ1章41節〜42節)ものであり、むしろ神がエリサベトに語らせたと見なしてもよい表現であって、神からのお墨付きを得た(神への信仰に合致している)適切な言い回しである。

◯サムエル記下6章9節
「その日、ダビデは主を恐れて言った、『どうして、主の櫃をわたしの所にお迎えできようか』」

【2】ルカ福音書1章の聖母とサムエル記下6章の神の櫃──その到来の比較

◯ルカによる福音書1章34節〜35節、39節〜40節
「マリアはみ使いに言った、『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』。み使いは答えた、『聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』」
「そのころ、マリアは旅立って、急いでユダの山地にある町に向かった。そしてザカリアの家に行き、エリサベトに挨拶した」

◯サムエル記下6章2節〜4節
「ダビデはバアレ・ユダから神の櫃を運び上げようと、一緒にいた兵士全員とともに出かけた。その櫃には名がつけられていた。その名は『ケルビムの上に座す万軍の主』である。彼らは神の櫃を真新しい車に乗せ、丘の上のアミナダブの家から運び出した。アミナダブの子ウザとアフヨが神の櫃を乗せた車を操った。アフヨは櫃を先導していた」

【3】洗礼者ヨハネとダビデ王は、ともに喜びおどっていた

◯ルカによる福音書1章41節、44節
「エリサベトがマリアの挨拶を聞くと、胎内の子が躍り」
「あなたの挨拶の声が、わたしの耳に入ったとき、胎内の子が喜び躍りました」

◯サムエル記下6章5節、14節
「ダビデとイスラエルの家の全員は、糸杉で作ったあらゆる楽器、琴、竪琴、タンバリン、鈴、シンバルに合わせて、主の前で喜び踊っていた」
「ダビデは亜麻布のエフォドをまとい、主の前で力の限りくるくる踊った」

【4】聖母と神の櫃は、ともに高らかな歓喜の叫びで迎えられた

◯ルカによる福音書1章41節〜42節
「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに叫んで言った、『あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています』」

◯サムエル記下6章15節
「ダビデとイスラエルの家はみな歓声をあげ、角笛(つのぶえ)を響かせながら、主の櫃を運び上げた」

【5】聖母と神の櫃は、ともにその場所に三か月間留まった

◯ルカによる福音書1章56節
「マリアはエリサベトのもとに三か月ほど滞在した後、家に帰った」

◯サムエル記下6章11節
「こうして主の櫃は、ガト人オベド・エドムの家に三か月の間留(とど)まった」

【6】その到来を迎え入れる者には、神からの特別な祝福が与えられている

◯ルカによる福音書1章13節〜15節、57節〜58節
「み使いは言った、『恐れることはない、ザカリア。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。あなたは喜び楽しみ、多くの人々もその誕生を喜ぶ。その子は、主の前に偉大な者となるからである』」
「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベトに大きな憐れみをおかけになったことを聞いて、ともに喜んだ」

◯サムエル記下6章11節
「主はオベド・エドムとその家を祝福された」

【7】聖母とダビデ王は、ともに喜びのうちにも自分が小さい者であることを忘れなかった

◯ルカによる福音書1章46節〜52節
「そこでマリアは言った、『わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は、救い主である神に、喜び躍ります。主が、身分の低いはしために、目を留めてくださったからです。そうです、今から後、いつの時代の人々も、わたしを幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、わたしに偉大な業を行われたからです。その名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕をもって力ある業を行われ、心の思いの高ぶった者を、追い散らされました。権力をふるう者をその座から引き下ろし、身分の低い者を引き上げられました』」

◯サムエル記下6章12節、16節、21節〜22節
「『主がオベド・エドムとそのすべてのものを、神の櫃の故に祝福された』とダビデに知らされた。そこでダビデは行って、喜びのうちに、神の櫃をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた」
「主の櫃がダビデの町に入ったとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていたが、ダビデ王が主の前で跳ねたりくるくる踊ったりしているのを見て、心の中で彼を軽蔑した」
「ダビデはミカルに言った、『お前の父やその家の誰でもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの君主に任じてくださった主の前なのだ。わたしは主の前でならこれからも踊る。今までよりもさらに見下され、自分の目に下賤に見える者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは尊敬されるだろう』」

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464