フィリピ4章でパウロは、「喜びなさい」(4節)「主はすぐ近くにおられる」(5節)と説く。神の義に適うことを行い続ける限り(8節〜9節、マタイ6章33節)、主イエスから「お前たちなど知らない。わたしから離れ去れ」(ルカ13章27節、マタイ7章23節)と拒まれる心配がないからである。
(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105
(注)別エントリー「試論:『砂の上に家を建てる人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12856
【追記】
いつも喜んでいるようにと一テサロニケ5章16節は勧める。ローマ12章15節は喜んでいる人がいれば一緒に喜び、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しむことを勧める。フィリピ2章18節でもパウロは喜ぶことを勧めるが、その前段階として14節では何事にも不平や理屈を言わないようにとまず勧める。
(注)別エントリー「試論:憐れみは誰のところへ??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8901
マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。
(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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