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試論:両親に仕えられた主イエスを140文字以内で

ルカ2章51節はイエスが両親(マリアとヨセフ)に従って暮らしておられたと記し、次の52節ではイエスが神と人から愛されたと記す。イエスが両親に従われたことを、もしも天の御父が快く思っておられなかったとしたら、聖書は「イエスが神から愛された」という書き方を決してしていないはずである。

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神が人となる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

黙示録12章やヨハネ19章25節からカトリックでは聖母を神の民の母と捉える。他方ガラテヤ4章26節では、「天のエルサレム」を神の民の母と記す。従って、象徴的・神秘的な意味で聖母は、神の都市である天のエルサレムと同一視され、「天の門(古代人にとって門は都市の象徴)」とも呼称される。

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことができないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは意味をなさない。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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