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試論:イザヤ58章の「世の光」を140文字以内で

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427