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民数記12章3節:モーセの人となり

(以下、聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

民数記12章3節には、モーセについて次のような人物評が記述されている。

◯民数記12章3節
「さてモーセは、この世のほかの誰(だれ)にもまして謙虚な人であった」

ではなぜ、モーセに関してこのように記述されているのか、旧約聖書のいわゆる「モーセ五書」を読みながら考えていく。

【1】なぜモーセが「この世のほかの誰(だれ)にもまして謙虚な人」なのか:モーセの苦悩

◯出エジプト記3章9節~10節
「見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。またわたしは、エジプト人が彼らを激しく虐(しいたげ)げているのを見た。さあ、わたしはお前をファラオのもとに遣わす。わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」

神が自分に課そうとしている責務に関して、明らかにモーセは自身がそれに値しない人間ではないかと考えていた。

◯出エジプト記3章11節
「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。このわたしがファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出すとは』」

ただ、モーセは自分自身の能力不足を自覚し痛感しながらも、それでも神からの期待に応えようとして、神からのさらなる助言を求めた。

◯出エジプト記3章13節
「モーセは神に言った、『わたしがイスラエルの子らの所へ行って、彼らに<あなたたちの先祖の神が、わたしをあなたたちのもとに遣わされた>と言い、彼らが<その名は何というのか>とわたしに聞いたとき、何と答えましょうか』」

◯出エジプト記4章1節
「モーセは答えて言った、『しかし、彼らはわたしを信用せず、またわたしの声に聞き従わず、<お前などに主が現れるはずがない>と言うでしょう>』」

次の箇所でもモーセは、神に自分に課そうとしている責務に関して、自身がそれに値しない人間ではないかと表明している。

◯出エジプト記4章10節
「モーセは主に言った、『ああ主よ、わたしは、以前から、またあなたが僕(しもべ)に語られた後も、雄弁な人間ではありません。わたしは口が重く、舌も重いのです』」

自分に課せられた責務の重さに苦悩したモーセは、時には次のように自分の思いを神に向かって口にした。

◯出エジプト記4章13節
「モーセは言った、『ああ主よ、どうかほかの人を遣わしてください』」

またモーセは、兄のアロンに自分の負っている重荷を少しでも分担してもらおうとも考えた。

◯出エジプト記4章28節
「モーセは、主が自分を遣わすにあたって語られたすべての言葉と、命じられたすべての徴(しるし)とを、アロンに告げた」

神が自分に課そうとしている重大な責務に関し、自分はそれに値しない人間ではないかという思いをモーセが抱き続けていたのは、次の箇所からも明らかである。

◯出エジプト記6章12節
「モーセは主に向かって言った、『イスラエルの子らでさえわたしに聞き従わなかったのに、唇(くちびる)に割礼(かつれい)のないわたしの言うことを、どうしてファラオが聞き入れるでしょうか」

【2】モーセは神に苦悩を表明し、一時(いっとき)はモーセの希望は叶えられた

民数記11章では自分の責務による負担の重さに関してモーセはあらためて神に苦悩を表明した。

◯民数記11章11節~15節
「モーセは主に言った、『あなたはなぜ、僕(しもべ)に酷(むご)い仕打ちをなさるのですか。わたしがあなたのみ心にかなわないことをしたので、この民全体をわたしの重荷とされるのですか。この民全体をわたしが身籠(みごも)り、わたしが彼らを産んだのでしょうか。あなたはなぜわたしに、乳母(うば)が乳飲み子を胸に抱くように彼らを抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓った土地に連れていくようにと、仰せになるのでしょう。この民全体に与える肉を、わたしはどこで手に入れるのでしょう。彼らは泣いてわたしに言っているのです。『食べる肉をください』と。わたし一人ではこの民全体の重荷を背負うことはできません。わたしには重すぎます。わたしにこのような仕打ちをなさるのなら、どうかお願いです。わたしを殺してください。これ以上、わたしが自分の不幸を見ないようにしてください』」

モーセは「神が自分に課そうとしている責務に比べて、自分はそれに値しない人間ではないのか」という思いを長年にわたり抱き続けて苦悩し、主なる神も当然それを熟知しておられた。

またモーセには、「イスラエル人たちの中で自分一人だけが過大な重荷を背負わされているのではないか」と意識が常にあり続け、自分の負担する重荷を他のイスラエル人たちにも分担してもらいたい、という苦悩も長年にわたって抱き続けていた。

◯民数記11章16節~17節
「主はモーセに告げられた、『イスラエルの長老たちの中から、民の長老格であり、またその司(つかさ)であるとお前が知っている者七十人をわたしのもとに集め、彼らを会見の幕屋に連れてきて、そこでお前とともに立たせよ。わたしは降りて行って、そこでお前と語り、お前の上に置いた霊の一部を彼らの上に置こう。そうすれば彼らもお前とともに民の重荷を背負い、お前がただ一人でそれを背負うことはなくなる」

そして、この長年のモーセの苦悩に対して、とうとう主である神は理解を示された。

◯民数記11章24節~25節
「モーセは出ていき、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを幕屋の周りに立たせた。すると主は雲の中にあって降(くだ)り、モーセと語り、彼の上にある霊の一部を七十人の長老たちの上に置いた。その霊が彼らの上に留(とど)まったとき、彼らは預言したが、その後重ねて預言することはなかった」

モーセ以外に七十人の長老が預言する状態になったが、それはこの一度だけに終わったのである。

しかしこの時、神はもう少し別のこともされて、モーセの心情を確かめられた。

◯民数記11章26節~30節
「その時、二人の者が宿営に残っていた。一人の名はエルダド、もう一人の名はメダドで、彼らの上にも霊が留まった。彼らは長老の中に名を記されていたが、幕屋に行かなかった。彼らは宿営の中で預言した。それで一人の若者が走ってきて、モーセに言った、『エルダドとメダドが宿営の中で預言しています」。若い時からモーセに仕えていたヌンの子ヨシュアが口を挟んで言った、『わがあるじ、モーセよ、彼らをやめさせてください』。しかし、モーセは彼に言った、『お前はわたしのためを思って妬(ねた)み心を起こしているのか。主の民がみな預言者となり、主がご自分の霊を彼らの上に与えられるとよいのに』。それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に引き返した」

あくまでもモーセの本心は、ただ「主の民がみな預言者となり、主がご自分の霊を彼らの上に与えられるとよいのに」というものであって、「自分だけが預言を独占したい」という「あさはかな」考えなどモーセには全くなかった。

【3】モーセの苦悩も知らず嫉妬心が剥き出しのミリアムとアロンに主の怒りが向けられた

にもかかわらず、モーセの姉ミリアムと兄アロンは、モーセが長い年月の間ずっと抱え続けていた苦悩になど少しも思いを致すことなく、かえってモーセに対する「妬み心」すなわち嫉妬心を剥き出しにした。
姉ミリアムと兄アロンの目には、モーセだけが特別扱いされて神からの権能を独占しているように映っていたのであろう。

◯民数記12章1節~3節
「さてモーセがクシュの女を妻にしていたので、ミリアムとアロンは、『彼はクシュの女を妻にした』と言ってモーセを非難した。彼らは言った、「主はモーセとだけ語られたのだろうか。わたしたちとも語られたのではないか』。主はこれを聞かれた。さてモーセは、この世のほかの誰(だれ)にもまして謙虚な人であった」

確かにモーセはイスラエル人の中から妻を娶ったわけではなかったが、それはもうずいぶん昔からの話で、なにもいまさらそれを持ち出さなくともよい話である(出エジプト記2章21節)。
「言いがかり」ともいうべき姉ミリアムと兄アロンによる自身への非難に対して、あえてモーセは何の反論もしなかったが、それは恐らく次の事柄がモーセの心に強く刻み込まれていたからに違いない。

◯レビ記19章16節~18節
「お前の身内を歩き回って、人を中傷してはならない。お前の隣人の命に関わるような偽証をしてはならない。わたしは主である」
「心のうちでお前の兄弟を憎んではならない。必要なら同胞を戒(いまし)めなければならない。そうすれば、彼のことで罪を負うことはないであろう。復讐(ふくしゅう)してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である」

実に「あさはか」としか言いようのないミリアムとアロンに対して、すぐに主の激しい怒りが向けられた。

◯民数記12章4節
「そこで主はただちにモーセとアロンとミリアムに仰せになった、『お前たち三人で会見の幕屋に出よ』。そこで彼ら三人は出ていった」

そして、主はアロンとミリアムに仰せになった。

◯民数記12章5節~9節
「主は雲の柱の中にあって降(くだ)り、幕屋の入り口で止まり、アロンとミリアムを呼ばれた。彼ら二人が出ていくと、主は仰せになった、『わたしの言葉を聞け。もし、お前たちの中に預言者がいるなら、わたし、主は、幻の中でその者にわたし自身を知らせ、夢の中でその者と語る。しかし、わたしの僕(しもべ)とはそうではない。彼はわたしの家全体を任されている。わたしは彼と差し向かいで語るとき、謎(なぞ)を用いずにはっきりと語る。彼は、また主の姿を見る。なぜ、お前たちは恐れもせずに、わたしの僕モーセを非難するのか」。主の怒りが彼らに向かって燃え、主は去って行かれた」

どのような裁きを主が下されたのかは、すぐに誰でも分かるよう、目に見える形で現われた。

◯民数記12章10節~13節
「雲が幕屋の上から離れ去ると、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリアムのほうを振り向いてみると彼女は重い皮膚病にかかっていた。アロンはモーセに言った、『ああ、わがあるじよ、わたしたちが愚かなために犯した罪を、どうかわたしたちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば朽ちて母の胎内から死んで生まれ出た者のようにしないでください』。そこでモーセは主に叫んで言った、『ああ、神よ、どうか彼女を癒(い)やしてください』」

嫉妬心に駆られた姉ミリアムと兄アロンに告発されても、私心(利己心)の全くないモーセは全く自己弁護せずミリアムやアロンに遺恨を抱くこともなく二人と争うこともなく、ミリアムの窮状を見るとすぐにアロンの求めに応じて、神に慈悲を乞うたのである。

◯民数記12章14節~15節
「しかし、主はモーセに仰せになった、『もし彼女の父が彼女の顔につばをかけたなら、彼女は七日間恥を忍ぶことになるのではないか。彼女を七日間、宿営の外に留(とど)めておけ。その後、彼女は再び連れ戻される』。ミリアムは七日間、宿営の外に留めておかれ、民はミリアムが再び連れ戻されるまで旅立たなかった」

神はミリアムの悪い企みに対して相応の罰を与えられたわけである。

◯出エジプト記34章5節~7節
「主は雲の中にあって降(くだ)り、彼とともにそこに立ち、主という名を宣言された。主はモーセの前を通り過ぎて宣言された、『主、主とは、憐(あわ)れみ深く、恵みに富み、怒ること遅く、慈(いつく)しみとまことに溢(あふ)れる神である。千代に慈しみを及ぼし、悪と背(そむ)きと罪を赦(ゆる)す。しかし、罰すべき者は罰せずにはおかない。父の悪を子に報い、孫に報いて三代、四代に及ぼす』」

◯レビ記25章17節
「お前たちは互いに隣人に害をもたらしてはならない。お前の神を畏(おそ)れなければならない。わたしはお前たちの神、主だからである」

【4】結論:モーセは「この世のほかの誰にもまして私心(利己心)の全く乏しい人」であった

出エジプト記の初めから民数記の12章までモーセの言行をフォローしていくと、モーセが「この世のほかの誰(だれ)にもまして謙虚(または謙遜)な人」であるという理由が明確になる。

モーセは自身の立場について不適格なのではないかと苦悩し続け、不当な告発を受けても遺恨など抱かず、低次元な争いに巻き込まれることもなく、かえって相手の窮状を知るとすぐに神に慈悲を乞う寛大さを持ち続けるような、私心(利己心)の全くない人だったからというのが、モーセが「この世のほかの誰(だれ)にもまして謙虚(または謙遜)な人」であるという理由であった。

古代のギリシア語訳旧約聖書の民数記12章3節では、「謙虚(謙遜)な」という箇所のギリシア語として「プラユス(πραυς – praus)」という表現を用いているが、このギリシア語はマタイ福音書5章のいわゆる「真福八端」において、「柔和な」という箇所に対応している原文のギリシア語と同じである。

ただし民数記12章3節のヘブライ語本文では、「謙虚(謙遜)な」という箇所に用いられているヘブライ語は「貧しい、乏しい」という意味にも解釈できる「アナーブ(עָנָו – anav)」という表現であることから、「謙虚な」といったニュアンスの日本語訳に異論を唱える向きも存在している。

とはいえ、これまでのモーセの言行を詳細にフォローしてみれば、モーセの人となりにおいて、「乏しい」ものとはいったい何であるのか、答えが見えて来る。
モーセの人となりにおいて全く「乏しい」ものとは私心(利己心)であって、それゆえにモーセは「この世のほかの誰にもまして謙虚(謙遜)な人」という評価になったのである。

つまりモーセは、「この世のほかの誰にもまして私心(利己心)の全く乏しい人」だった。

繰り返し強調するが、私心(利己心)の全くないモーセは、嫉妬に駆られた姉ミリアムと兄アロンに告発されても、全く自己弁護せずミリアムやアロンに遺恨を抱くこともなく、二人と争うこともなく、モーセはミリアムの窮状を見るとすぐにアロンの求めに応じて、ひたすら神に向かって叫び慈悲を乞うたのである。

モーセは、神からさまざまな権能を与えられた身ではあっても、それを私物化して自分自身のために利用することは全くなかった。

古代のギリシア語旧約聖書において、モーセは「プラユス(πραυς – praus)」という表現を用いて評価されており、この聖書ギリシア語は通常、日本語訳聖書では「謙虚(謙遜)な」または「柔和な」という表現に対応するが、旧約聖書でモーセの言行をフォローするならば頷ける話である。

旧約聖書第二正典のシラ書には、モーセの生涯に関して次のように要約されている。

◯シラ書44章23節~45章5節
「主はヤコブから慈悲深い人を興された。この人は、あらゆる人々に好意をもたれ、神と人々に愛され、その思い出は祝福に満ちているこの人こそ、モーセである。主は彼にみ使いたちに等しい栄光を与え、彼を偉大な者として、敵の恐怖の的とされた。彼の言葉に応(こた)えて、主は徴(しるし)を矢継ぎ早に行われ、王たちの面前で彼を高め、民のための掟(おきて)を彼に託し、ご自分の栄光の一端を示された。その忠実と柔和の故に彼を聖別し、すべての人の中から彼を選び出された。ご自分の声を彼に聞かせ、黒雲の中に彼を引き入れ、顔と顔を合わせて掟を授けられた。これは、命と知識の律法で、ヤコブにその契約を、イスラエルにその定めを、教えるためのものである」

シラ書45章4節の「柔和」に対応する聖書ギリシア語は「プラユテース(πραυτης – prautēs)」であるが、当然これは民数記12章3節の「謙虚な」という日本語に対応する「プラユス(πραυς – praus)」の関連表現である。

ここまでの議論で、モーセが「この世のほかの誰にもまして謙虚な人」に関して考察して来たが、モーセに関しては、民数記12章を読む限り「謙遜」よりも「柔和」のニュアンスがより強いようにも思われ、恐らく後者の方がより適切な日本語訳であろう。

「柔和(な)」と「謙遜(な)」は、似たような意味合いで、しばしば「柔和で謙遜」などと並称されることが多いが、そのような場合に(マタイ11章29節など)、「柔和な」に対応しているギリシア語は「プラユス(πραυς – praus)」、「謙遜な」に対応するのは「タペイノス(ταπεινος – tapeinos)」である。

当然この「プラユス(πραυς – praus)」は、マタイ福音書5章5節でも登場して「柔和な」という日本語に訳されている。

◯マタイによる福音書5章5節
「柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」

一方、ヤコブ4章6節そして一ペトロ5章5節で、「謙遜な」に対応しているのはギリシア語聖書本文では「タペイノス(ταπεινος – tapeinos)」となっている。

以上から、民数記12章3節の「謙虚(または謙遜)な」という部分は、「柔和な」と置き換えて考えた方が、言葉の本来の意味合いからも物語の流れからも、より適切である可能性がある。

モーセは全てを神に委ね尽くしていたがゆえに、姉ミリアムや兄アロンを相手に自分自身を正当化しようとする行為すら、詮無い事柄であると考えていたのであろう。

どちらかといえば、「謙虚(謙遜)」が「へりくだり」あるいは「自分自身を低くすること」などというニュアンスである一方、「柔和」の方は「物事を荒立てない」「争いを好まない」「性質が優しく穏やかである」などといったニュアンスである。

自分を陥れようと悪だくみをした姉ミリアムのために神に向かって叫び慈悲を乞うたところに、「この世のほかの誰にもまして私心(利己心)に全く乏しい人」モーセの真骨頂を見ることができるが、まさにモーセがそのような人となりであったがゆえに、神はモーセを重んじ続けられた。

モーセの実際の言動を旧約聖書でフォローしていくと、一見すると「民族的英雄」のイメージとは程遠い「弱気」な発言が随所に見受けられるのも、また事実である。
しかし、「この世のほかの誰にもまして私心(利己心)に全く乏しい人」であったがゆえに、神はモーセに目を留められ、モーセも「忠実」(シラ書45章4節)をもって神に応えたのであった。