主イエスはルカ21章26節でエルサレム滅亡(紀元七〇年)の前後に「天体が揺り動かされる」ことを予告された。古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、神殿の聖所を「天」にたとえ、ヘブライ9章24節も同じ比喩を踏まえる。都の滅亡の前に武装勢力たちが聖所を蹂躙することを主は予告された。
(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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【追記】
ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられ、メルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよおられた。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。
(注)別エントリー「試論:『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。
(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書から逃げ回る人』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。
「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。
二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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