試論:神がお喜びになる事柄を140文字以内で

主イエスはマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)、ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであっていけにえではない」を引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など神に受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主イエスはマタイ7章21節で「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と宣言され11節で「求める相手に良いものを与えることこそ天の父の御心」と仰せになった。天の父の御心とは、「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」を行うことである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271