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試論:「塔と王の喩(たと)え」を140文字以内で

主イエスはルカ14章28節以下の「塔と王の喩え」で御自分の弟子の条件について御説明され、弟子が常々自問していなければならない事柄として、自分が今置かれているのはどんな状況か、今の自分自身はどんな状態か、自分に足りないものは何か、それを補うために自分は何をすべきか、等を示唆された。

【追記】

主はルカ14章26節で、「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」は「二の次にする」の意味合いである。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

マルコ10章17節で主に金持ちの男が永遠の命を受け継ぐにはどうすればと尋ねた時、彼はそれが比較的容易な問題と考えていた。主はマタイ13章46節とルカ14章33節で「自分の持ち物を全て手放す」ことに喩えられ、永遠の命を手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があると御説明された。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を受け継ぐ』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10200

マタイ5章13節で主は信者たちを「地の塩」とお呼びになり、信仰を「塩気」にたとえられたが、理由は当然マタイ28章19節以下にある通りに全世界が信者たちによって「塩気」で味付けされねばならぬからである。マルコ9章50節は「塩」と“調和”を関連付け、ヨハネ13章35節を既に予告する。

主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別概念で、詩編105編19節や119編140節にあるように、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

(注)別エントリー「試論:口から火が迸り出る預言者を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5525