【1】イエス・キリストの職業はギリシア語で「テクトーン」
◯マタイによる福音書13章55節(日本聖書協会『聖書』新共同訳)
「この人は大工の息子ではないか。」
◯マルコによる福音書6章3節(日本聖書協会『聖書』新共同訳)
「この人は、大工ではないか。」
上記の両福音書の原文を見ると、「大工」に相当する単語として、
「テクトーン(ラテン文字転写で“tektōn”)」
というギリシア語が用いられている。
つまり、この「テクトーン」こそ、主イエス・キリストの職業を意味するギリシア語である。
【2】本田哲郎神父の「イエス・キリスト=石切」説
ところが日本人のあるカトリック司祭は、主イエス・キリストの職業そして養父である聖ヨセフの職業を表している「テクトーン(“τέκτων”)」というギリシア語の意味について、従来の一般的な訳語である「大工」ではなく、むしろ「石切(採石労働者)」と解釈すべきだ、と主張している。
・本田哲郎『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)61ページ
「そして就いた仕事が、養い親の大工ヨセフの仕事だったわけです。その大工とは何かといえば、『石切』の仕事だった。」
・本田哲郎『釜ヶ崎と福音』〔岩波現代文庫版〕65ページ〜66ページ
「そして就いた仕事が、養い親ヨセフの仕事だったわけです。何かといえば、『石切』の仕事だった。ヨセフは大工(オイコドモス)ではなく、石切(テクトーン)でした(マタイ一三章55節)。イエスもまた石切でした(マルコ六章3節)。朝から晩まで、縦横何センチ、高さ何センチのブロックを刻んでいく仕事です。」
・本田哲郎『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)129ページ〔岩波現代文庫版では141ページ〕
「ヨセフもイエスも、その職業は大工と書かれている。その『大工』の主な仕事は何かといえば、実は石切なのです。」
・同書140ページ〔岩波現代文庫版では153ページ〕
「じっさい、罪人と見なされた石切のせがれイエスには、学問をするゆとりもチャンスもなかったはずです。」
・本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店)89ページ
「しかし、ここでイエスについて使われているのは、テクトーンという違うギリシア語です。テクトーンとは、切る、掘る、削るという、そういう作業工程を示すことばです。」
・同書241ページ
「テクトーンとは大工ではなく、石切りのことです。」
【3】「テクトーン」は木を素材として仕事をする職業だった
そこでまず、新約聖書の問題となっている箇所で用いられている、職業を表すギリシア語を示す。
(これより提示するギリシア語は、特別な場合を除き、ギリシア文字からラテン文字に転写した形で表記する)
マタイ13・55 “tektonos”
(新共同訳「大工(の)」)
マルコ6・3 “tektōn”
(新共同訳「大工」)
七十人訳ギリシア語旧約聖書のエレミヤ10・3には、マタイ13・55と同じ、
“tektonos” (“τέκτονος”)
(新共同訳「木工(が)」)
(『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注「職人(の)」)
という表現が登場する。この部分の前後関係を見ると、フランシスコ会聖書研究所訳注では、
「木が森から切り出され、職人ののみによる手仕事を経て、」
とあるので、この「テクトーン」と呼ばれる職業すなわち「職人」が、「石切」ではなく「木工」であることは文脈から明らかであり、件の日本人カトリック司祭(本田哲郎神父)の主張は早くもこの時点で否定されてしまう。
新共同訳聖書では、「テクトーン」が仕事の素材としているものに関して、「森から切り出された木片」と表現しており、やはり「テクトーン」は「木工」と解釈すべきである。
【4】ギリシア語で「石切」を意味するのは「ラトモス」
一方、新共同訳聖書の歴代誌上22・2を見ると、
「〔神殿造営に必要な〕切り石を切り出すための採石労働者」
という表現が登場する。これはまさに件の日本人司祭の持論そのものである。
しかし七十人訳聖書の該当箇所を調べても、“tektōn”という単語は登場せず、それとは別の、
“latomos” (“λατόμος”)
というギリシア語の単語を用いた表現すなわち、
“latomous latomēsai 〔lithous xustous〕”
(新共同訳「〔切り石を〕切り出すための採石労働者」)
が登場する。
“latomos”(「ラトモス」)とは、
“las”(または“laas”) 「石」 (“λᾶς”)
“temnō” 「切る」 (“τέμνω”)
という二つのギリシア語に由来する合成語で、まさに件の司祭の持論「石切」そのものである。
この「ラトモス(latomos)」という表現は、七十人訳ギリシア語旧約聖書の他のいくつかの箇所にも登場するが、いずれも新共同訳では、
「石を切り出す労働者」
という日本語の表現になっている。
列王記上5・29(新共同訳。七十人訳では5・15) “latomōn”
(新共同訳「石を切り出す労働者」)
歴代誌下2・1(2) “latomōn”
(新共同訳「石を切り出す労働者」)
歴代誌下2・17(18) “latomōn”
(新共同訳「石を切り出す労働者」)
これらの「石切」たちが実際に働く場所は、「山で」あるいは「山中で」とある。
【5】「ラトモス」と「テクトーン」は別々の職業である
また、新共同訳の歴代誌下24・12を見ると、
「(彼らは神殿を修復するために)石工と大工(を雇い)」
という表現が登場する。そこで七十人訳の該当箇所を調べると、
“latomous kai tektonas” (“λατόμους καὶ τέκτονας”)
(新共同訳「石工と大工」)
(フランシスコ会聖書研究所訳注では「石切り職人と大工」)
(注)“kai”は英語の“and”に相当する接続詞。
とあり、“latomos(石切)”と“tektōn”とが区別されて並記されている以上は件の司祭の持論である「テクトーン(“tektōn”)は石切」説は成立せず、以上の議論から「イエスやヨセフは石切」説も成立しないことは自明である。
他に“latomos”(「ラトモス」)が登場する例を、以下に示しておく。
列王記下12・11~13 “latomois (tōn lithōn)”
(新共同訳「採石労働者」)
(フランシスコ会聖書研究所訳注「石切り職人」)
(注)“tōn”は英語の“the”に相当する定冠詞。“lithōn”は「石」。
エズラ3・7 “(tois) latomois kai (tois) tektosin”
(新共同訳「石工と大工(に)」)
(フランシスコ会聖書研究所訳注「石工と大工(には)」)
(注)“tois”は英語の“the”に相当する定冠詞。
また「石工」と新共同訳で日本語訳されている七十人訳聖書のギリシア語には、以下のものがある(フランシスコ会聖書研究所訳注でも同じく「石工」)。
歴代誌上14・1 “oikodomous toichōn”
歴代誌上22・15 “oikodomoi lithōn”
(注)上記のうち、歴代誌上22・15の“oikodomoi lithōn”は、「採石労働者、石工」を一括した訳語である。
それでは“tektōn”は、七十人訳の他の箇所ではどのように用いられているかというと、下記のように、「工人」「職人」全般に対する単語で、時に修飾語を伴って職業が限定される場合や、前後の文脈から限定的な意味を推論して意訳される場合もありうると分かる。
【6】七十人訳ギリシア語旧約聖書の中の「テクトーン」
実際に七十人訳聖書に登場する“tektōn”の全ての用例について、以下に列挙する。
対比のため新共同訳の日本語も併記する(新共同訳にも意訳が含まれている)が、新共同訳における旧約聖書の底本はヘブライ語聖書(ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア)である。「ヘブライ語原文からの日本語訳」と「ヘブライ語原文からのギリシア語訳」とを比較することで、そのギリシア語の意味するところを明らかにすることができる。
サムエル記上13・19 “tektōn sidērou” 「鍛冶屋」
(注)“sidērou”は「鉄(の)」。
サムエル記下5・11 “tektonas xulōn” 「木工」
(注)“xulōn”は「木」。
サムエル記下5・11 “tektonas lithōn” 「石工」
(フランシスコ会聖書研究所訳注では「壁のための石工」。石切でないことに注意)
列王記上7・14(七十人訳の7・2) “tektōn chalkou” 「青銅工芸の職人」
(注)“chalkou”は「青銅(の)」。
列王記下12・11~12 “tektosin tōn xulōn” 「大工」
(「大工」の後の「建築労働者」は“oikodomois tois poiousin”、「石工」は“teichistais”、「採石労働者」は“latomois tōn lithōn”となっている。つまり大工はテクトーン、建築労働者はオイコドモス、採石労働者すなわち石切はラトモスであることが、この部分の記述から分かる)
列王記下22・6 “tektosin” 「職人」
(「職人」の後の「建築作業員」は“oikodomois”、「石工」は“teichistais”)
列王記下24・14 “tektona”「職人と鍛冶」
列王記下24・16 “tektona”「職人と鍛冶」
歴代誌上4・14 “tektones”「職人」
歴代誌上14・1 “tektonas xulōn” 「大工」
(「大工」の前の「石工」は“oikodomous toichōn”)
歴代誌上22・15 “tektones xulōn” 「大工」
(「大工」の前の「採石労働者、石工」は“oikodomoi lithōn”である。つまりこの節では、木を扱う人々がテクトーンと呼ばれ、石を扱う人々はオイコドモスと呼ばれている)
歴代誌下24・12(再掲) “tektonas” 「大工」
歴代誌下34・11 “tektosi” 「職人」
(「職人」の後の「建築作業員」は“oikodomois”)
(注)「職人(“tektosi”)」や「建築作業員(“oikodomois”)」は、神殿修理のために、「切り石および骨組みや梁に用いる木材」を献金で買っている。つまりこの場合、テクトーンが自分たちでは「石切り」の作業を行なってはいないことが、この前後の記述から明らかとなる。
エズラ3・7(再掲) “tektosin” 「大工」
(注)アポクリファのエズラ(ギリシア語)5・53では “tektosi” 「大工」
箴言14・22 “tektones (kakōn)” 「(罪を)耕す者」
箴言14・22 “tektosin (agathois)” 「(善を)耕す人」
イザヤ40・19 “tektōn” 「職人」
(注)同節に「鋳て造り」とあり、金属工である。
イザヤ40・20 “tektōn” 「職人」
(注)素材として同節中に「木」が繰り返されている。
イザヤ41・7 “tektōn” 「職人」
(注)同節に「釘を打って動かないようにする」とあり、ここは「木工」である。
(「職人」の後の「金工」は“chalkeus”)
イザヤ44・12 “tektōn sidēron” 「鉄工」
イザヤ44・13 “tektōn xulon” 「木工」
エレミヤ10・3(再掲) “tektonos” 「木工」
ホセア8・6 “tektōn” 「職人」
ホセア13・2 “tektonōn” 「職人たち」
ゼカリヤ2・3(七十人訳では1・20) “tektonas” 「鉄工」
知恵13・11 “hulotomos tektōn” 「きこり」
(注)“hulotomos”は、“hulē”(森)そして、“temnō”(切る)に由来する、合成語。
シラ38・27(28) “tektōn kai architektōn”「職人と職人頭(がしら)」
エレミヤの手紙7(七十人訳のバルク6・7) “tektonos” 「職人」
エレミヤの手紙45(七十人訳のバルク6・45) “tektonōn” 「彫り物師」
(注)エレミヤの手紙50の「木彫」という言葉から、ここは「木工」である。
【7】「イエス・キリスト=石切」説を否定する根拠は他にも挙げられる
七十人訳聖書では、「石工」を表わすギリシア語として次の四種類の表現が用いられている。
・latomos:山の石切場(採石場)で働く石切、または単語として石工一般。
・“oikodomoi lithōn”:神殿や王宮を建設した石工(建設労働者)。
・“tektonas lithōn”:特に神殿の壁のための石工(石切ではない)。
・“teichistais”:「採石労働者」ではない壁のための石工(石切ではない)。
件の司祭の持論とは異なり、単語として「石切」を意味しているのは“tektōn”ではなく、“latomos”である。また修飾語なしの単語として「石工」を表現しているのも“tektōn”ではなく、“latomos”である。
“tektōn”が「石工」に対して用いられる場合、七十人訳ギリシア語聖書では「石」を表わす“lithōn”という修飾語が付くが、マタイ13・55やマルコ6・3には修飾語はないため、それが「石工」を意味している可能性はほとんど考えられず、ましてや「石切」である可能性など全くの問題外であろう。
一方、イザヤ40・20や同41・7、またエレミヤ10・3それにエレミヤの手紙45(バルク6・45)においては、 修飾語なしの単語としての“tektōn”が文脈からは当然「木工」を意味していると、これまでの議論で明らかにされている。
ここで改めて、新約聖書の問題となっている箇所も、同様に追記する。
マタイ13・55 “tektonos” 「大工(の)」
マルコ6・3 “tektōn” 「大工」
また、シラ38・27(28)で「職人頭(がしら)」と表現されている単語が新約聖書でも登場するが、新共同訳はここでは別の訳語を当てている。
一コリント3・10 “architektōn” (“ἀρχιτέκτων”) 「建築家」
(注)ギリシア語の“architektōn”は、英語の“architect”の語源とされる。
以上から“tektōn”とは「工人」「職人」全般に用いられた単語であると分かるが、カトリック教会がなぜ伝統的に「大工」「木工」と解釈して来たのかというと、二世紀の聖人であるユスティノスが『ユダヤ人トリュフォンとの対話』88章で言及しているような、以下の伝承による。
それは、主イエス・キリストは公生活前は鋤(すき)や軛(くびき、頸木)を作る仕事に従事しておられたが、後に御教えを宣べられるに当たり、主はそれらのものを活動的な生活や正義のたとえ(象徴)とされた、というものである(鋤はルカ9・62、軛はマタイ11・29~30)。
ところで、マタイ福音書とマルコ福音書の両方に、
“latomos” 「石切」
という名詞に対応する、「石切りする」 → 「(岩を)掘る」という意味の、
“latomeō” (“λατομέω”)
という動詞を用いた、以下のような表現が登場する(日本語は新共同訳による)。
マタイ27・60 “elatomēsen” 「(岩に)掘った」
マルコ15・46 “lelatomēmenon” 「(岩を)掘って作った」
つまり両福音書の著者たちはともに“latomos”(「石切」)という言葉を知らなかったはずがなく、件の司祭が言うようにイエスやヨセフが本当に「石切」であったとするなら当然、両福音書の著者たちも、“tektōn”ではなく“latomos”という表現を用いていなければならないはずであった(がそうではなかった)。
ここでもまた、「石切」説に否定的な結論が導き出される。