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試論:主イエス抜きのキリスト教を140文字以内で

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴として、キリスト教を語っているようでいて実は世間に通じる話題ばかりで、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉を巧妙にまた頑に、事実上無視していることを挙げる。「神の御言葉」として来られた方の実際の仰せに触れない人の言い草など意味がない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは「天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神」を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

ヨハネ1章9節「まことの光」という箇所の「まことの」に当たるギリシア語本文の単語は、真理すなわちアレテイアの形容詞アレティノスである。「真理(アレテイア)」という語が特別な意味合いを持つヨハネ福音書においては、「まことの光」という表現は、言い換えれば「真理の光」ということになる。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7564

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954