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試論:「用意していなさい」を140文字以内で

主はルカ12章40節で「常に用意(準備)していなさい」と仰せになり、何の「用意(準備)」かをパウロはテトス3章で、「すべての善業を行うこと」と「すべての人に優しく接すること」と説明した。「もし永遠とは何かを知ったならば人はどんな努力でもするでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

【追記】

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

マタイ25章の最後の審判を踏まえれば天の国と永遠の命は同義であり、主は天の国を13章44節で持ち物を全て売り払ってでも自分のものとすべき宝と表現された。「もし永遠の意味するものを理解したならば、人々は全ての努力を払ってでも自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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洗礼者は「その方は麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とキリストについて説いた。「殻」は詩編1編4節の「もみ殻」のことで「神に逆らう者」の比喩である。ヨブ21章17節〜18節も同じ比喩を使う。洗礼者は事実上「最後の審判」を暗示し、多くの人々が彼の許を訪れた。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

マタイ1章19節のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(正しい人)と表現するが、この語は同25章37節では最後の審判で永遠の命が確約されている人を指し、天の御父がヨセフのことを御子イエスとマリアを委託するに足る人物(エゼキエル18章5節〜9節参照)と評価されていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

ルカ2章51節はイエスが両親(マリアとヨセフ)に従って暮らしておられたと記し、次の52節ではイエスが神と人から愛されたと記す。イエスが両親に従われたことを、もしも天の御父が快く思っておられなかったとしたら、聖書は「イエスが神から愛された」という書き方を決してしていないはずである。

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは意味をなさない。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781