二コリント3章6節の「文字は殺し、霊は生かす」の
「文字」とは、
「律法の文字」(ローマ2章27節)
つまり古い契約であるモーセの律法を指す。
「霊」とは、
「神の霊」(二コリント3章3節)が心に記される(エレミヤ31章33節)
新しい契約である「キリストの律法」(マタイ7章12節)を指す。
(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛』の反対を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。
(注)別エントリー「試論:『ダビデ王の十字架』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。
ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。
(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。
(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ12章では、主イエス・キリストと一人の律法学者との対話で、申命記6章の「唯一の主」の掟とともに、レビ記19章18節の「隣人愛」の掟が二回(マルコ12章31節、33節)言及されている。マタイ7章12節でも主は「これこそ律法と預言者」と仰せになり、最も重要な掟であると示された。
レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。
(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197