マルコ6章12節は主が十二使徒を派遣された目的を「悔い改め」(1章4節参照)させるためと記す。この「悔い改め」の意味をルカ1章17節は「親たちの心を子たちに向け、主に従わぬ者に『正しい人(=最後の審判で永遠の命を確約されている人)』の分別を持たせ、主の到来の準備をさせる」と記す。
(注)別エントリー「試論:『悔い改め』具体的に何?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えたが、ルカ1章17節では洗礼者が担うことになる重大な使命として、《主に逆らう者に「正しい人(最後の審判で永遠の命が確約されている人)」としての分別を持たせるための準備をする》ことが、天使によって父ザカリヤに予告されている。
(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネとエリヤ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『あの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8677
(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、《ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される》として最大級の賛辞で、表現している。
(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613