ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。従って聖書全体ではなく厳密な意味では主イエスの仰せだけが神の御言葉である。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスは有名な「種を蒔く人」のたとえで「良い土地に落ちた種は、芽を出し良い実を結んだ」(ルカ8章8節)と仰せになり、11節「種とは神の御言葉」15節「良い土地に落ちた種とは、素直で無垢な心で御言葉を聞き、忍耐強く御言葉を固く守り続け、実を結ぶに至る人たちである」と御説明された。
(注)別エントリー「試論:『字義通り』と『たとえ』を140文字以内で」も参照のこと。
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