主イエスはルカ10章42節で「マリアは良い方を選んだ」と仰せになった。ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」つまり《人々へ直に御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主はマタイ20章28節では「人の子は仕えられるために来たのではない」と宣言され、まずは御自分の言葉に傾聴するよう勧められた。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章41節「あなたは多くのことに」の「多くの」に当たるギリシア語は、同福音書の他の箇所では「おびただしい」とも訳され、数や程度のはなはだしさを意味し、大所帯を切盛りできる配慮や才覚がマルタにあったことを示唆している半面、当日のもてなしが「盛り沢山」過ぎた蓋然性をも暗示する。
主イエス・キリストが「神の御言葉」(ヨハネ1章1節)であられる以上、最も喜びとされることは、御自分の仰せになる御言葉に人々が耳を傾けて聞き従うことである。それゆえ主はマルタからマリアを擁護された(ルカ10章41節以下)。ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは神を知ることであって、〜」。
(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。
主イエスは、たとえ御自分を批判する人々から「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」と中傷されようとも、御自分の教えに喜んで耳を傾けようという人々に対しては機会を逃さずに、いくらでもお話しをしようという心構えであられた。人間世界にいつまでもとどまっておられるわけではないからである。
主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。
(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。
(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と私的啓示を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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