主イエスはマタイ7章26節で、御自分の御教え(御言葉)を聞くだけで行おうとしない人々を、砂上に家を建てる愚か者にたとえられた。箴言14章9節は〔主の御言葉を聞くだけで行わない〕愚かで高慢な人々は全てにおいて他人に責任転嫁するため、仲間割れして互いになじり合い共倒れに終わると説く。
一コリント6章10節「他人を悪く言う者は決して神の国を受け継ぐことができない」エフェソ4章31節「無慈悲、憤り、怒り、喚き、誹り等の全てを、全ての悪意と共に捨てなさい」一ペトロ2章1節「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を全て捨てなさい」レビ19章17節「心の中で憎んではならない」。
(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884
(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982
「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。
(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。
(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9220
(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025
二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。
(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462
(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783
(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578
(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840
(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703
(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277
(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279
一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969
主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。
ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。
ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。
紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。
プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。
主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744
ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。
(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578
(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22
主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296
箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。
「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332
(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244
(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334