「マグダラのマリア」

マルコは、ベタニアで主の頭に高価な香油を注ぐ女性を記す。ヨハネも、ベタニアでラザロの姉妹マリアが主の足に高価な香油を塗ったと記す。主は彼女の行動を埋葬の準備と呼んだ。マルコ16章冒頭で主の御遺体に油を塗りに行く婦人たちの中に彼女もいたはずで、マグダラのマリアである蓋然性が大きい。

御復活の朝、主を目の前にしてマグダラのマリアは、十人の使徒たちやトマスのように、まず手の釘の痕や脇腹の槍の痕を確認しようとしたはずである。主の「わたしに触れてはならない」は、「手や脇腹を見なくとも、あなたは少しの疑いの余地もなくわたしを認識できているでしょう?」の裏返しでもある。

主はヨハネ20章17節でマグダラのマリアに「触れてはならない」と仰せになった。この時、主が指先で、彼女の額に触れて制止された、という伝承がある。マルコ3章9節以下には、主に触れようとする群衆のあまりの勢いに小舟が用意される話があるが、彼女の勢いもまたそれに近かったのかも知れない。

マルコ16章9節はマグダラのマリアを「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」と呼ぶ。箴言6章16節は「主の憎まれるものが六つ、主の心からいとわれるものが七つ」として17節以下で七つの悪徳について列挙する。「七つの悪霊」とは、マリアが克服した七つの悪徳を指すと思われる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

一世紀にはギリシア語でタリケアと呼ばれていたガリラヤ湖畔の町をユダヤ人はヘブライ語でミグダル、アラム語でマグダラと呼んだと想定され、魚を保存用に加工する燻製工場で知られた。風紀の乱れた町としても悪名高く、歓楽地としての町全体または一部の歓楽街を呼ぶ際マグダラが悪名的に用いられた。

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

主イエスはマタイ12章38節以下で「しるしを見せてください」と迫った人々に対して、救い主に求めるべきものはしるしなどではなく、むしろ救い主が語る御教えであるべきだと強調された。主イエスはルカ10章でも「仕える」を選んだマルタより「御教えを聞く」を選んだマリアの姿勢を良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866