主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。
(注)別エントリー「試論:『どう聞くべきかに注意』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ13章の「種を蒔く人」の喩えをお話しにになった際、「耳のある者は聞け」(9節)と命じられた。御子イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として来られた。従って主イエスに直接応対する場合には「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアの方が良しとされた。
(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
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ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。
(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方は誰』?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言18章13節は、他人の話に聞き従う以前にまず何か口答えする習慣を持つ者に相応しいものを二つ挙げている。また12節では心の驕りが破滅に先立つことを記し、20章12節も聞く耳を持つよう勧め、21章4節でも高慢なまなざしと傲慢な心こそ、神に逆らう者と罪の「しるし」となることを説く。
主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。
(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。
(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
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新約聖書には、「耳のある者は聞け」という表現が随所に登場するが(マタイ11章15節、黙示録13章9節等)、この場合の「耳」とはイザヤ50章にある通り、主が忠実な弟子に賜る特別な恵み「理解力」の比喩である(4節〜5節、「主なる神は弟子となったわたしを呼び覚まされて耳を開かれた」)。
マルコ9章7節「これはわたしの愛する子。これに聞け」マタイ13章14節以下「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。心は鈍り、耳は遠くなり、目を閉じてしまう。こうして、この民は、目で見ず耳で聞かず、心で理解せず悔い改めず、わたしはいやさない」。
(注)別エントリー「試論:『良い土地に蒔かれた種』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:種蒔きのたとえを140文字以内で」も参照のこと。
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