主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも自分に負い目のある人々を赦します」と(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」、
(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『仲間を赦さない者』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。
(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。
(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
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