試論:「裁きの日に確信を持つ」を140文字以内で

一ヨハネ4章16節以下「わたしたちは神の愛を知り、信じます。神は愛です。愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。この世でわたしたちがイエスのようであるなら愛がわたしたちのうちに全うされており、裁きの日にでも確信を持つことができ、恐れなどしません」。

【追記】

ヨハネ14章23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き一緒に住む」同章2節以下「わたしの父の家にはたくさん住む所がある。わたしは行ってあなたたちの場所を用意したら、わたしの許にあなたたちを迎えるために戻って来る」。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

イザヤ書は42章以降で救い主の様々な御業を預言し、65章17節以下では、究極の目的である「天の国」つまり「新しい天・地・エルサレム」の創造を記す。ヨハネ14章2節以下で主イエスはそれを準備するために自分は出発すると予告された。この「天の国」は、「復活の体」の創造をもって完成した。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章13節で、狭い門つまり命(ヨハネ14章6節)へ通じる神の義の門(詩編118編19節、イザヤ26章2節)から神の国に入るようにと勧められた。門を通過できるか否かの唯一無二の基準になるのは《愛の掟》キリストの律法(マタイ7章12節)であると、直前で主は断言された。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章21節で主の天使は、「マリアが産む子は自分の民を罪から救う」とヨセフに伝えた。成長された主イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えられた。ローマ6章17節以下は「あなたたちは罪の奴隷だったが、伝えられた御教えの規範に従って罪から解放され義の奴隷になった」と記す。

一ヨハネ3章7節は「〔神の〕義を行う人は、御子(=主イエス・キリスト)が義であるように、義人です」と記し、マタイ6章33節「まず神の国と神の義を追い求めなさい」を想起させると共にルカ13章27節「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、わたしから離れ去れ」にも注意を促す。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『ディカイオス』聖ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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