試論:関わってはいけない眉唾物を140文字以内で

主イエスは、旧約聖書の預言とは何より御自分及び御自分の到来前後の歴史への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、都の滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると説かれた(ルカ21章22節)。旧約聖書と現代の国際情勢を結び付ける言説は主イエスと無関係の眉唾物である。

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
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【追記】

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ13章34節は「イエスはこれら全てをたとえを用いて語られた」と記す。主語自身はルカ8章11節で「種とは、神の御言葉」と仰せになった。ヨハネ1章は主イエスを「言(ことば)」つまり《御自ら人々に御教えをお話しになる神》と表現する。マタイ13章37節「良い種を蒔く者は、人の子」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方は誰』?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
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