試論:「畑に隠されている宝」?を140文字以内で

主イエスはマタイ13章44節で「天の国」を「畑に隠されている宝」に喩えられた。これに関連してコロサイ2章3節は「全て知恵と知識の宝はキリストの内に隠されている」と断言しており、ローマ10章17節「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことにより始まる」とも合致している。

(注)別エントリー「『これに聞け』聞くことで信仰は始まる」も参照のこと。
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【追記】

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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主イエスはマタイ6章19節以下で「あなたたちは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と仰せになった。これに関連して、箴言23章4節は「富を必要以上に得ようとして、神経を使い過ぎるな。善悪の分別を失う前に止めなさい」と戒める。

(注)別エントリー「『何も持たずに』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
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ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。