試論:一コリント4章の「王様」を140文字以内で

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに統治して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至るように日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理は何から自由にする?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。

黙示録20章には「この火の池が第二の死である」(14節)「その名が命の書にない者は火の池に投げ込まれた」(15節)などとあるが、マタイ25章には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)「永遠の罰」(46節)と書かれている。

マタイ25章31節以下には、主イエス・キリストによる最後の審判について書かれており、その裁きの結果、正しい人たちは「永遠の命」にあずかって「天地創造の時から用意されている国」を受け継ぎ、そうでない人たちは「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」に入って「永遠の罰」を受ける。

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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