【問】キリストの十字架の犠牲によって神と人間とが和解できたのならば、人間は何もしなくても良いのですか?【答】キリストは神と人間の仲介者となられましたが、天の御父の御心を行うこと(マタイ7章21節)が条件で、それは「他人から自分がしてもらいたいことを、自分から他人にしなさい」です。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリストによる神との和解を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスを、ヘブライ12章24節は「新しい契約の仲介者」と呼ぶ。コロサイ1章20節「〔神は〕御子イエスの十字架の血によって平和を打ち立てられ、天地万物をただ御子によって御自分と和解させられた」ヨハネ14章27節「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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キリスト教では「神は愛」(一ヨハネ4章8節)であり、従って神が否定される事柄はことごとく「愛の反対」に属しているが、あえてそれらを要約するならば、主が教えられた通り「悪い思い」(マルコ7章21節)と総称されている、心の中から生じるさまざまな悪い感情つまり多様な邪念だと考えられる。
ヨハネは第一の手紙の4章で「神は愛」と二度(8節、16節)記し、また自分の福音書で「神は御独り子をお与えになったほど、世を愛された」と記す。御独り子である主イエスの《愛の掟》は「他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい。これが律法と預言者」(マタイ7章12節)である。
一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。
一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。
ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。
マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。