たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。
(注)別エントリー「試論:赦しは救いの鍵を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5382
【追記】
マタイ6章14節から15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は、「主の祈り」(6章12節)の補足説明であり、従って「主の祈り」を唱える者はその都度14節から15節に思いを致すべきである。
(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501