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試論:エフェソ6章の「霊の剣」を140文字以内で

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

主はマタイ10章34節で自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣は分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この分断の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されるが、主の御言葉をエフェソ6章17節と黙示録1章16節では「剣」にたとえ、前者は「聖霊の剣」と表現する。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

主はマタイ10章37節で、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:洗礼者ヨハネと最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7075

もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)に導くからである。

神が人間に望んでおられる生き方とは何かを、親は子供にも教えなければならないと、申命記6章7節では説く。子供に教える行為は親自身の学びの機会にも当然なる。神が人間に望んでおられる生き方が何かを教えぬまま礼拝に参加させると、信仰とは単なる形式に過ぎないという誤解を子供に与えてしまう。

申命記6章では子供から「主が人間に教えを授けられた理由はなんですか」と質問された時、親は「人間の生活をいつも幸せなものにするため」と答えるべきだと記す。殺されたり、盗まれたり、だまされたり、理由もないのに憎まれたり、配偶者を横取りされたりすることは、誰一人として、望みなどしない。

(注)別エントリー「試論:『休ませてあげよう』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6961

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ヨハネ6章63節は、人間に由来する事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼ぶ。ガラテヤ5章16節以下は、同じく「肉」「霊」という表現を用いて両者を対比し、詳細かつ具体的に説明を加え、19節〜21節は避けるべき事柄を「肉の業」と呼び、22節〜23節は「霊の結ぶ実」について勧める。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。