聖母被昇天」カテゴリーアーカイブ

試論:聖母の神殿奉献の意味を140文字以内で

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

【追記】

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにも関わらず「わたしは主のはしため」と繰り返し、実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295