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試論:ヨハネ5章39節「聖書」を140文字以内で

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360