ヘブライ人は時に人間それ自体を「骨」と呼んだ(箴言14章30節等)。エゼキエル37章も、神の民としてのあるべき姿から道徳的に程遠い有様に成り果てた人々を「枯れた骨」と呼んだ。「わたしの住まいは彼らと共にある」は、「神の御言葉は人となりわたしたちの内に住まわれた」と同じ意味である。
(注)別エントリー「試論:『骨』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8811
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
創世記6章にある通り、古代のヘブライ人は人間それ自体を「肉」と表現したが、同様に「骨」も人間それ自体を指す場合があった。箴言14章30節「憐れみの心はその人自身にも周囲の人々にも『命(=幸福や安堵感や充足感)』をもたらすが、嫉妬心は骨の隅々に至るまでその人間全体を腐らせていく」。
(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人には「家も体も自分にとっての住まい」と考え両者を同一視する観念があった。故にエゼキエル37章27節「わたしの住まいは彼らと共にある。わたしは彼らの神となり彼らはわたしの民となる」とヨハネ1章14節「神の御言葉は人となりわたしたちの間に住まわれた」は同じ事柄である。
(注)別エントリー「試論:インマヌエルを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
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《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》を《神の家=神殿》に重ねて「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々に通じなかった。
(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924