箴言12章18節は「軽率な一言は人の心を剣のように刺し貫くが、知恵ある人の言葉は心の傷を癒す」、15章4節は「癒し(赦し)を与える言葉は命の木」と教え、相手に安堵や幸福を与える言葉を、「命」と表現する。古代のヘブライ人は、「鋭く人の心に迫る言葉〔の力〕」をしばしば「剣」に喩えた。
(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。
創世記50章20節以下「『あなたたちはわたしに災いを企みましたが、神はそれを幸いに変えて多くの民の命を救うため、今あるようにして下さいました。恐れないで下さい。わたしが、あなたたちとあなたたちの家族を養いましょう』。ヨセフはこのように語り兄たちを安心させ、その不安を取り除いた」。
(注)別エントリー「試論:『柔和とは』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。
(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。
(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。
古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。
(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
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