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試論:「この小さな者の一人に」を140文字以内で

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

【追記】

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346