試論:「地上の全ての民は嘆く」を140文字以内で

古代のヘブライ人は詩編78編69節の比喩を踏まえ神殿の聖所を「天地」あるいは「天」と表現した。聖所を「天」と呼ぶ際、「地」は「イエラエルの地」(エゼキエル7章2節)を指す。ルカ21章22節で主イエスは〔紀元七〇年の〕エルサレム滅亡で旧約聖書の預言は完全に成就すると仰せになられた。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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【追記】

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ13章26節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、日本語の「乗る」に当たる動詞はギリシア語本文にはない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録6章15節以下「地上の王や高官や千人隊長たちは洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かい『我々の上に覆い被さり玉座に座っておられる方の御顔と小羊の怒りから我々を匿え』と言った」マルコ13章26節「人の子が大いなる力と栄光を帯び天の雲に乗って来るのを見て、地上の全ての民は悲しむ」。

(注)別エントリー「試論:『人の子は来る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859