黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。
【追記】
古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。
(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。
(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。
主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。
「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。
二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。
(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。
紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。
(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。
(注)別エントリー「試論;『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録11章2節は「異邦人に与えられた、神殿の外の庭」に言及する。これは紀元七〇年に滅亡したエルサレム神殿に特有の領域であり、従って黙示録の啓示が与えられたのはエルサレム神殿がまだ存在していた紀元七〇年以前ということになる。1章1節は「すぐにも起こるはずのこと」と緊急を強調する。
(注)別エントリー「試論;『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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黙示録22章12節は「わたしはすぐに来る」と記す。この「来る」とはどのような意味合いかを同6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」と説く。ルカ17章22節「人の子の日」やマタイ10章23節「人の子は来る」も同じで、同24章33節の通り人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ10章7節で「神の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、それと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。
主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」、22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。
主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。
主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。