試論:古代の王の「宴」を140文字以内で

バビロン捕囚からの解放後、ユダヤ人は引き続きペルシアの統治下に組み込まれたが、エステル1章にある通り、ペルシア王は自分の莫大な富と権力を誇示するため都に住む民を皆、身分の上下を問わず宴に招いた(6節)。マタイ22章の「婚宴」とは、神が民を天の国に招かれて喜びを共にすることである。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
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【追記】

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740